昭和45年9月8日 
第15号
苦を果たした上での悦び

 東京を発ってから、三時間ほど、正午近く、私達を乗せた「ひかり号」は、京都駅のプラッとホームにすべり込みました。
 「ひかり号」の冷房があまりにも快適だったせいでしょうか、京都駅に降りてからの蒸し暑さは、まるで蒸し風呂、そのもとでもいったらよい程でした。
 その炎熱地獄の中で、列車を待つこと30分余り、それから炎天下、マッチ箱のような、ディーゼルカーを乗り継ぎ、まるで弁当箱か何かの中で、煎られている豆のような思いで、三輪に到着しました。
 三輪では、ちょっとした行き違いから、駅に40分近く足止めくってしまいました。かれこれ1時間近く遅れて参道にさしかかると、私達をお世話して下さる佐藤さんが、暑い中を参道の入口で、それまで長いこと立って待っていて下さり、「遠路、暑い中をよくお越し下さいました。」と快く迎えて下さいました。
 三輪にいる間中、私達は、終始、佐藤さんの心からの、にこやかなもてなしを受け、暑さのことも忘れ、すっかり、くつろがせて戴きました。
 三輪の杉木立の間にも、一服の涼がありましたが、何よりも忘れられなかったのは、佐藤さんがみんなに配って下さった「うちわ」です。それはひとあおぎ毎に、木立の間の涼風を、身体の中にまであおぎこんでくれるようで、みなに心からよろこばれました。
 大神神社では、そうして、昨年同様、祝詞をあげ、お神楽を奉納し、お参りもすませていただきました。それから、素麺をいただいて、一路、また暑い中を、大阪へ向かったわけです。
 京都も、京都からの三輪までも、三輪から大阪までも、大日の日は、一日中、真夏の太陽に蒸し焼きにされるのではないかと、思われる程、蒸し暑さに閉口させられ通しだったのですが、その暑さは、夜にはいっても一向に衰える気配をみせず、私達はまるで、一日中炎熱地獄の中で、試されているようでした。
 そのような苦を果たしてこそ、本当のお参りになるのだと、神が一人一人に、身をもってお悟しになっているとしか思えない程、大日の暑さは、厳しいものでした。
 七日の朝早く、私達の、夜行列車は、遂に私たちの心のふるさとである出雲に到着しました。
 その日は午前中、雨が時には降りしきったり、時には小止みになったりしていましたが、不思議と私達の行動やお参り、それに見学などに、さして差し障りとなる程のこともなく、程よいお清めといったところでした。
 実際、松の緑が雨に洗われ、眼にもあざやかに、感覚的にも神域に来たということを、実感として味わうことができました。
 私は、いつも、「八雲たつ」と神話に書かれている出雲に来ると、心の安らぎを覚え、心から神様に甘えたいという、気持ちになります。それは、神様のおまつりしてある出雲が、私達日本人の心のふるさとであり、その神様のところにきて、今、こうして、神様のふところにだかれているという安堵感によるものだと思います。
 そうして、神様のおひざ元にかえってくることを、出雲の人たちは、「おくにがえり」とよんでいるわけです。
 しかし、私は、一方では、神様から、よく来たと迎えられ、安心し、せいぜい甘えようと思うのですが、他方では、お参りとお行に来ているのだということを思うと、自然と自分に対して厳しくなります。
 そういうわけで、私は、八日午前零時のお詣りが終るまで、好きな「たばこ」も、平気で断てるのです。
 お行も、お参りも、大体、昨年と同じです。また祝詞の厳かさもお神楽の素朴さも、去年と何らかわるところはありません。今年は朝のお詣りの時、私が玉串を捧げようとすると、鳩が拝殿の中までとんできて、欄干のところにとまったということでした。
 去年は、大神神社で、礼拝中、雷鳴が絶えなかったわけですが、今年は、出雲大社で、このような珍しいことがおこったわけです。
 それが、さすが神様のおひざ元という場所柄、みな、きちっときまって、私が、かえって、びっくりする程でした。皆で、鶴前会館の廊下と、お便所の雑巾がけを、させていただいたことも、去年しなかったことの一つです。
 更に、今年は、真夜中のお参りを無言でさせていただきました。会館から拝殿前まで、ひとことも口をきかず、心を鎮めつつ歩いたわけです。この時私は、非常に身が軽くなり、足の悪いのがなおったのではないかと思われる程、さっさっと大股に歩ける自分に、びっくりしてしまいました。
 実際、鶴前会館を零時十五分前位に出たのに、拝殿の前についてから、なお十五分もあったのですから、あの時の私は、介添してくださっていた会田さんさえ、驚く程でした。
 神様のおそばに早く行かせて戴きたいという私の気持ちと、神様の早くおいてとよばれる歩けたのでしょう。
 さらに、今年は、零時のお参りの後、倒れることもなく、蓄電池が充実された時のような状態で、心身共にこの上なく充実し、神様から、非常に大きなお力を戴いたということが実感として感じられました。
 あと、皆生温泉でくつろいだ一日をもって、出雲詣も終ったわけですが、その間、何のいざこざも、不快なこともなく、みな快くお参りできたのも、神様のことで、皆の心が一つに結ばれていたからに他ならないと思います。
 もとより、心友会につどい集まっている皆さんの間には、その様な事どととか、不祥事など、起こる筈もないのですが、今度は、出雲参りということで、特に、みなさんの心が一つのものにつながっていたわけです。
 さらに、今度のお参りで、特に深く感応されて、神様を体得された方もいらっしゃいましたが、それというのも、暑い中、遠路をいとわないで、わざわざ出雲にまでお詣りするという、並々ならむ苦を果たしたからのことです。


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